「おはようございます、坊っちゃま」 重い瞼をこすりながら、いつものように良い香りの漂うリビングに行くと、 そこのテーブルにはもう既に専属コックの作った朝食が並べられ、普段と変わりもなく執事がにっこりと微笑みかけた。 椅子には誰も座ってはなく、たった今起き上がったツキタケだけが朝食を見つめていた。 ・・・父さんと母さんはまだ起きてないんだろうか。 それがふと頭に過ぎてみても、どうも眠気のせいか訊ねる気にはなれなくて ただ、おはよ、と 欠伸混じりで返しただけで、 お早いですね、と言われたのはなんとなく覚えてる。 ぼんやりする頭でなんとかご飯を食べるために椅子に座ろうとすると 椅子に手を伸ばすよりも先に轟がそれをさっと後ろに引いた。 「・・・・・・。」 「どうぞ、坊っちゃま」 悪気もない轟へそれとなく目で訴えてみても、返ってくるのはあの笑みだけだった。 善意で今の動作をしてくれたのだから、 無言でいるには彼に悪い気がして、この時は「・・・ありがと」と答えたけども。 気がつけば朝食が食べ終わってから眠気でうとうとしてる間に ツキタケが学校へ行く仕度を終えてしまっていたようだった。 部屋から持ってきたランドセルを、ソファーに寝転がるツキタケの傍に置く。 ニュースを伝えるテレビの音が、やけに大きく聞こえる。静かなのだ、今日の朝が。 普段は親や幾人かの使用人がいるはずなのに 今日はツキタケと轟しかいないのだから いかに屋敷の必要のないぐらい広いかが、改めて気がついた。 「そういえば、お父さん達は?」 「朝早くに出かけられましたよ」 それを聞いて、そっか・・・と小さく呟いた。 「お忙しいですからね、ご主人様も奥様も」 でも夕食までにはちゃんと帰って来られるとおっしゃってましたよ。 寂しがってるんじゃないだろうかと、気遣うように轟がそう答えた。 「そろそろオイラ学校に行くよ」 「それでは只今車を用意致しますので・・・」 「あーいいよ 歩いてくから」 荷物の詰まったランドセルを背負った。 今日の体育の授業は縄跳びが必要だったはず、とか うろ覚えの時間割を思い出しながら、忘れ物がないかどうかを確認する。 しゃがみ込んで靴を履きながら少し無言でいると、手に持ったマフラーを手渡して彼は言うのだ。 「忘れ物はございませんか?」と。いつものように。 ツキタケは唇を尖らせながら「大丈夫」と答えた。 マフラーを乱雑に巻いて、靴のつま先を叩く。 「昨日探してらした縄跳びは 鞄に入れましたか?」 「うん」 「宿題が多いって仰ってましたが、昨日ちゃんと最後まで終わらせましたか?」 「なんとか終わったから平気」 「あとハンカチとティッシュも持ちましたか?」 「持ったよ!!ちゃんと!!!」 うとうとしていた朝はつい受け身になってしまっていたけども、眠気を覚ました今となると 轟の気遣いは、ただのしつこい親の心配にしか聞こえない。 ドアノブに手をかけてるというのに、なかなかそれを押すタイミングが掴めない。 「大丈夫だからそんなに心配しなくていいよ!じゃあ行ってくる」 「あ、坊っちゃま」 開きかけたほんの隙間を、轟の声が遮った。 踏み出しかけた足をそこに渋々留め、「なに?」と振り返ってみると 呆れた返事をする前に腕が傍へと寄ってきた。 「マフラーが」 そう言って赤のマフラーに手をかけ、首に乱雑に巻かれたそれを丁寧に正す。 ほんの僅かな動作だったとはいえ、子供の視線から見てみてもその仕草はとても丁寧で カンペキに甘えちゃってるなあ、と心の中で溜め息をついた。 朝起きた時からそうだ。 そんな日々がもう何年も続き、気付いたら日常となってしまっているその甘え。 当然のようにそれに寄りかかっていると、ふとひとつの疑問に頭に浮かぶ。 ― オイラは轟に、何をしてあげたらいいんだろう? 答えが見つからないまま、大きなドアは轟によって開けられていた。 「外から帰ってきたら、うがい手洗いもするんですよ」 「はいはいもうわかったから」 「良いお返事です」 よくわからない満足をしながら にこ、と微笑んだのを見て、ふと気がついた。 「・・・轟も」 ぽつりと呟いてみると、彼ははい?と首を傾げた。 「轟も リボン曲がってる」 首元に結んでいたリボンタイの先端が解けてしまっていて、片方だけが長く伸びて 尚且つそれがツキタケが指摘したように、曲がっていた。 「あーもーしょーがねーなー!貸して!」 轟が後で結び直そう、と思ったのと、ツキタケがそれに腕を伸ばしたのはほぼ同時。 『とんでもございません、坊っちゃまにそのような事をさせる訳にはなりません』 そんな言葉すら言わす間を与えず、ツキタケは精一杯の背伸びして手を伸ばした。 タイの高さを目の前の彼に合わせて屈んでみると 小さな手は、結んであった紐リボンを掴んだようで、ほっと安心したように顔を緩めた。 ほんの少し伸びたような小さな身長を眺めながら、轟はツキタケが首元で結び終えるのをじっと待っていた。 しかし完成したのは、先ほどよりもひどくなっているリボン結び。 リボン・・・というより蝶々結びなんて普段運動靴以外にはやった事がなかったのだ。 相手の角度に合わせた結ぶなんて考えてみれば初めてに近くて、気付いた時には愕然とした。 「・・・ゴメン、オイラやらなきゃよかった・・・」 張り切って結び始めたものの、あまりの完成のひどさを作り出してはツキタケも落ちこまずにいられようか。 轟も、目線を下にやってその不器用なリボン結びを見やる。 けれども。 「ありがとうございます」 耳を疑いつつ見上げてみるとそこにあったのは、いつものあの笑顔。 しかし轟のその首元にも、自分の結んだ曲がったリボンタイが目線の中にうろついているのだ。 「やっぱり変だよ、それ。後でちゃんと直しといてね」 「直しなどしませんよ。せっかく坊っちゃまが頑張って結んでくださったんですから」 「お父さんに注意されても知らないからね」 「受けてたってみせます」 どんなに心強い言葉を言われても、タイが曲がっていると決まらないものだ。 注意される前に直して欲しいなあ、と思いつつ 「坊っちゃま」と呼ぶその声に顔を上げた。 「大きくなられましたね」 「何が?」 不思議そうに首を傾げると、 「ご身長がです。」 「・・・そう?」 ふーん、と大して興味ないふりをしたものの ほんの僅かに見せた嬉しそうな表情は、大人ぶっていてもやはり子供らしくて微笑ましい。 「そんなに伸びた気しないし、気のせいじゃん?」 口を尖らせながら自分の背丈に手をかざしてみるあたり、身長を気にしているんだろう。 まあ確かに同い年と背の順で並んでみたら、前の方に並んでしまうかもしれないけども。 ―誰よりも背が高い、よりも あなたの成長がとても嬉しい 「私が言うんですから、そうなんですよ」 この幼い子供も、 いつかは世話係の存在を嫌がり自立していくのだろう。 抱えるものは重くなり、障害にもたくさんぶつかるだろうけども 成長したツキタケは、きっとそれを乗り越えていける。 いってくるね、と振り向いたツキタケの小さな背中に、轟はお辞儀した。 「お気を付けて いってらっしゃいませ」 それまでどうか傍にいられますようにと、願いながら。 |