きっかけは、そう ―


















たくさんの寄せ書きの書かれた、中学の卒業アルバムをそっと綴じる。

住み慣れた家を離れ、東京へ旅立つ出発の前夜だった。
荷物はそろそろ引越し先に着いただろうか。
空っぽになった部屋を眺め、抱く感情は何ともいえない寂しさ。それと感慨が混じった高揚感。
それを救うかのように、電話の鳴る音が家に響いた。

「おじいちゃん」

とってみると、電話の向こうの声は一緒に住んでいるおじいちゃんだった。
留守番悪いね、と陽気に笑うこの声とも、しばらくはお別れ。


「やっぱり明日、向こうまでついて行こうか?」
それは上京するまで残り2週間をきってから、おじいちゃんが私を心配して、よく言う言葉だった。
ついていこうか?と、とても心配して寂しそうに言うものだから、私はその度に
足止めをくらうような気持ちに囚われてしまう。

「いいよ大丈夫。私一人で行けるから、おじいちゃんは心配しないでよ」
「心配すんなって言われてもなぁ・・・若い子一人都会に行かせるのは不安だし、

何てったって姫乃は方向音痴だし」



ぐ・・・
痛いところを突かれてしまった。
特に強調された最後の言葉。
上京するにあたって最大の心配しているものが、脳内に繰り返し響かせている。

"方向音痴だし。"

私の尋常ではない方向の音痴さは、小さい頃から周りをよく困らせていたようで。
本来人間でも本能的に持っている方向感覚というものが
私には可哀想なぐらい無いと言われ(そこまで言わなくても)、お母さんや近所の人達にはよく心配されていた。

北をまっすぐ進めと言われても、きっと私は疑いもせず南を突き進むのであろう。
そういえば鞄に地図は入れただろうか。
方向音痴である私にとって、地図は長期航海でいうなら"食料"と等しいのだ。
命を繋げるもの。ただの紙っぺらだけども、誇張表現でもない。
これを無くしてしまえば、私はイカダでただひたすら水平線を漂流することになってしまう。
東西南北はおろか前後左右さえもわからず、目標地に辿り着けずに路頭に迷う自分の姿がリアルに目に浮かぶ。
しかも周りには知らない人だらけ。
田舎だと自然に与ってきた親切は、"東京"という国にはないのだという。

恐すぎる。




「だ・・・大丈夫・・・」

今日この日までに大丈夫、大丈夫と何度も言い聞かせてきて、少しは自信というものを抱いたというのに。
おじいちゃんのたった一言が、それをドミノ倒しの如く崩し倒していった。

・・・明日、私は屋根の下で眠る事ができるのだろうか。





「もう少ししたら帰るよ。帰ってきたら今夜は姫乃の見送りパーテーだ!」
「ほんとっ?じゃあ楽しみに待ってるね」

気をつけて帰ってきてね、と言うと おじいちゃんは陽気な笑い声を残して電話を切った。
おじいちゃんの"パーテー"には、ちょっと突っ込みたかったが
(きっと"パーティー"と言いたかったのだと思う)
おじいちゃんのお祝いしてくれるその気持ちは、とても嬉しかった。
今の私が一人でいたら、きっと明日の出発の足が重くなるほど気持ちが沈んでいたことだろう。


――私は、きっと行ける。




(きっと。)(・・・。)













パーティーで騒いだ翌日、いまだ海外へ行ったまま帰って来ないお父さんの部屋を覗いた後
私は出発前に鞄を横に置き、お母さんの遺影が飾られた仏壇の前に座った。
暫くはもう、この前に立つことはない。いつも朝見る遺影を今日はじっと見つめ、神妙な心持ちで私はぴっと背筋を正した。




・・・お母さん。

心の中に、ひとつ呼びかける。





住み慣れたこの地から 私は旅立ちます

この田舎を離れるのは寂しいけれど、旅立つ地で待っている 予想もつかない"何か"を
私は愛してゆきたいと思います


あなたがこの地を愛したように










なんて仏壇に拝んだ後、妙に照れくさくなって真顔がゆるりとほころんだ。

「行ってくるね、お母さん」
いつかまたあなたの前に、強くなった私が真っ直ぐと前に立っていられますように。

線香の煙が一筋漂う中、正座していた足から腰を上げて、立ち上がろうとすると






―――・・・ヒメノ 。


微かな、声




誰もいない静かなはずの背後から、聞き逃してしまいそうな 音のような声が
春を香らせる微風に乗せてふと耳に霞めた。

しかし振り向いてみても、何の姿も目にとらえるものはない。



「・・・空耳かなあ?」

それにしては鼓膜に懐かしく、響いた気がしたのだけども。
首を傾げていると、「姫乃!」と次は聞き覚えのあるいつものおじいちゃんの声が聞こえた。
「そろそろ出発の時間だよ」
腕時計を見てみると、家を出る予定だったはずの時刻がもう既に目前に迫っている。


「はーい!今行く!」














『 迷ったのかい おじょうちゃん 』

昔。おぼろげでしかない記憶の中に佇む、私が小さかった頃に聞いたあの声
『ヒメノ』と刻み、森の中で迷っていた小さな私を、街へと案内してくれたあの声




とても懐かしい その声が、私の生活のはじまりのきっかけ。





























第1譚の前日