橙色に染まり始めた頃から降り始めた雨は、にびいろの空になった今でも緩まる事なく降り続いている。 新聞が伝えた今日の天気予報は外れ。 ふと空を見上げた母が「今日は天気が悪くなりそうね」と呟いていたのを聞いたはずなのに、ただなんとなく傘は持っていかなかった。 窓から見てみた天気が晴々としていたのと、それとほんのちょっとの反抗心。 それが理由で、重たいランドセルを背負って、見送りの車が出発するのを待たずに学校へ走っていったのが今朝の事。 母の予感は大当たり。 少しだけ、送り迎えの車を期待してみたけれど、そんな『もしも』なんて 考えるのを止めにした。 人気のない公園の滑り台のトンネルの中に隠れては雨を凌いでいた。 すぐ止むと思っていたのに、待てば待つ程勢いは増していく。どれ程時間が経っただろう。 晴れてさえいれば滑り台であるこの上を、幼い子供たちが滑り降りていたのに。 今は幼い声など聞こえるはずもなく、ただ雨の音しか聞こえない。 寒い、と思った。 巻いていたマフラーに顔をうずめて狭い中で縮まり込み、雨が止む時をじっと待つ。 雨凌ぎになるようなここまで駆けてくる間に濡れてしまっていたランドセルをぎゅっと抱き締める。 今は濡れた服も少しずつ乾き始めていたけども、髪だけがまだしっとりとしていた。 たまに水滴が髪を伝ってぽとりと一滴落ちる。寒くもなるはずだ、と かじかんだ手を握る。 こんな時間だし、こんな状態だ。 帰ったら怒られるんだろうなぁ、とツキタケは今の状況を嘆いた。帰りたくないなぁ。 雨音にかき消されそうな、誰にも聞こえはしない声を呟いては溜め息をひとつ吐く。 ランドセルを眺めていると、新しく付けられたような一筋の傷が目に止まった。 つやのある漆黒の中で目立つそれの 心当たりを思い出して、再び溜め息が自然と漏れた。 「心配してっかな、アイツ・・・」 街灯の橙色の薄い灯りに気付いて、ふと空を見上げてみると暗い空が見えた。 今頃もしかしたら探してるかもしんない。 置かれた状況に他人事のように困って、気付かないフリをしていられるのも限界だった。 地面を叩き付ける雨音しか聞こえないこの世界は、とても狭く感じられた。 傍には誰も居なくて、寒くて寂しくて、不安ばかり支配する中初めて 怖い、と思った。 開きかけた口が 声を出すのを躊躇う。 名前呼んだって、アイツはやって来ないよ。 名前を呼べばいつも助けに来てくれるのはヒーローだけで、彼は、付き人はやって来れないのだ。 わかってるのに、震えた唇が雨音にかき消される微かな声を刻む。 学校の送り迎えには来ないでと言ってるのに、指切りまでしたのにそれでも校門の前で待っていて、 父に怒られてもまったく懲りないで、次の日も校門の前で待ってる(困った)ひと。 ――轟、 雨が 止んだ。 「坊っちゃま!」 聞こえた声に、耳を疑った。 雨の飛沫が飛ばない。水溜りに水が跳ねる事なく トンネルから顔を見上げてみれば たった今呼んだばかりの轟の姿がそこにいた。 「やっと見つけましたよ」 そう笑った顔を見た瞬間に覚えたのは 今まで積み重なっていた不安とかが一気に消えたという事と、彼以上に安心したという気持ち。 「とどろき・・・」 呼んでおいて、その後には間の抜けた声がつい口からもれた。 声変わりのしてないその声に轟は安堵の息をつきながら、トンネルの中で座り込むツキタケに手を伸ばす。 「なんで・・・」 どうしてここにいるって分かったの?と訊こうと思った。 しかし髪の質感に気付いた轟に、 「!?坊っちゃまびしょ濡れじゃないですか!」 「あーうん ちょっと雨で濡れて・・・それよりもなんで・・・」 「風邪引かれる前に早く帰りましょう!さぁ早く!車ならそこにありますから!」 「・・・話聞けって・・・まぁいいやもう」 続けて言葉を遮られた事でその言葉は上手く続かなかった。 なんとなく納得いかないような気持ちで、差し出された手に己のそれを乗せると、温い温度がこちらへ伝わってきた。 開かれた大きな傘の中へツキタケを入れると、隣に並んだ轟が不満そうに呟いた。 「連絡して下されば、すぐに迎えに行ったのに」 「迎えなんかに来たら轟、お父さんに怒られちゃうし」 「そんなのは・・・」 「轟が良くてもオイラがヤなんだよ!」 慣れっこでございます って言うに決まってる! 夜、子供は寝静まったと思っているのだろう父が、付き人の轟を怒る姿は、ドアの隙間から何度も見ている。 付き人なのに何をやっているんだ、とか ツキタケが嫌がってるだろう とか 閉まったドアの向こうから、そんな事を言われてるのだって聞こえてるし (どうして、轟はオイラの傍にいてくれるんだろう。) 訊きたいと思っていながらも、ずっと訊けないでいる。 この時落ちた沈黙が、彼に怒らせてしまったのだと思わせたのだろう。 「・・・ここでずっと雨宿りしてらっしゃったんですか?」と話を持ちかけた。うん、と頷くと 「・・・寂しかったでしょう、1人で」 轟が目を伏せて、申し訳なさそうに突然そう言ったものだから驚いた。 一瞬反応に戸惑わずにはいられず、嘘を言ってもきっとすぐにばれてしまうだろうから、正直に教えた。 「・・・、寂しかった よ」 すっごく。 公園の前に停められた車へ辿り付くと、轟は傘をツキタケに預けてドアの鍵を開けた。 ガチャッと鍵の開けられた音がすると彼はまず、後ろの座席のドアを開けるのだ。そして先に乗せようとする。 どうぞ、と言って、 乗り込んだのを確認するとドアを閉めて、ようやく自分が運転席へ乗り込む。 でも今回は。 傘をすぐに畳んで、音がするのとほぼ同時にツキタケは助手席のドアを開けた。 「! 坊っちゃま!助手席より、後ろの席の方が広・・・」 助手席に乗り込んで、シートベルトを締める。今度はツキタケが轟の言葉を遮る番だった。 「オイラここでいい。」 そう言うと、首を傾げた。 そう ですか?と不思議そうに訊ねて、自分も乗り込んだ。 考えてみると、轟の運転する車の助手席に乗るのは初めてだった事に気付く。 いつも後ろの広い座席に座されるのだが、今日ばかりは何故かそんな気分になれなかった。 ミラー越しよりも隣に座って、傍にいる事を確認していたい。 なんか変な気持ちだなぁと、窓の外を眺めながら思った。 外ももうすっかり暗くなっていたし、クラスメイトに車に乗っている所を見られて 翌日何か言われる事もない。 隣からシートベルトを締める音がして、それからギアを入れる音がした。 それと車体の外からは、滴が車体に当たる音。 ライトに照らされた道から、降り続く雨が見える。車が動いてから少しの間会話は無かったが、 「轟」、と曇った窓に指で一線なぞりながら話し掛けた。 「1コだけ、オイラのワガママ聞いてくれる?」 「勿論。1コと仰らずいくらでも」 「1コだけでいいんだ」 「うちに帰ったら、轟が寝るまででいいから 傍に居てもいいかな」 とって付けたように 聞いて欲しい話とかあるし、と呟くと 隣からは反応はすぐに来なかった。 普段あまり我侭とか甘えたりをしない子供だから、驚かずにはいられない。 我侭を言う事は小さな子供の権利なのに、それを申し訳なさそうに言ったものだから、 てっきり欲しいプレゼントかもしくは行きたい所でもあるのかと思ったのに。 「ダメ?」 そんなもので良いのですか、と訊ねそうになったが、その言葉を飲みこんだ。 「いいえ、喜んで」 ハンドルを回す。向かい先は暖かい我が家。 手の冷たかった子供も安心のできる空間に戻れば、きっと笑顔が戻ってくれるだろう。 もう "寂しかった"と思わないように、そう祈りながら 家までの帰路を辿る。 「寒かったでしょう、温かい紅茶も淹れて、時間の許す限りゆっくりお話のお相手しますよ」 小さな声で、ありがと というのが聞こえた。 「傍に居てあげますから」 にびいろが明けるまで |